はじめに
こんにちは。
今日は、あの東日本大震災がもうすぐ14年ということで
まず東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りし、
被害に遭われた皆様の救済と今も尚続く被災地域の
1日も早い復興を心よりお祈りいたします。
さて。今日はこれからあの日。
自分に起きたことを覚えている限り、
書き記そうと思っています。
嫌な気持ちになった方、
思い出したくもない方は
読まなくて大丈夫です。
すみません。

ちなみに写真はすべてイメージです。
「愛が勝つ」聴いてたな~♪
ほんといい歌詞…
「お疲れ様です。けんいち休憩入ります。」
私はあの日。
いつもと変わらず晴天の中、
茨城県の家電量販店で仕事をしていました。

新卒1年目。
地元栃木県を離れ、茨城県での生活や仕事にも
少し慣れてきたあたりでした。
休憩は交代制で、
あの日はご高齢のお客様の対応をしていて
休憩は一番最後になったと記憶しています。
インカムで休憩を伝えた後、店舗のバックヤード
(沢山の家電製品が積まれている倉庫)を抜け、
ロッカー室(休憩室)へ向かいました。
今日も疲れたな。。。
遅くなっちゃたなーと思いながら、
カップラーメンを食べるために
ポットでお湯を沸かそうと
スイッチを入れ、
バナナを食べ始めました。

(この後、大震災が起きるなんて知らずに。。。)
テレビをつけて、確かちょうど
ミヤネ屋を見ていたと記憶しています。
しかし、突如、その瞬間が訪れました。
3月11日 午後2時46分18秒
今まで経験したことがない突き上げる地震。
小中学校で学んだ避難訓練体験を
はるかに超える大揺れ
立っていることもできず、
ロッカーに体をぶつけ、
初めて震える怖さを感じ、
身を守ろうと、
机の下に隠れても揺れはなかなか収まらず、
テレビは倒れ、
窓ガラスは割れると同時にこちらに飛んできて
パニックでした。

電気は止まり、水も止まり、おそらくガスも・・・
一気に何が起きたのか解らなくなりました。
そして少し間、放心状態が続いた時
「●●さん、聞こえますか?」と
店長からインカムで声が聞こえました。
後から知りましたが、
お店にいたお客様を店員全員でお店の外へ
避難誘導をした後、
自分がいないことに気付き何度か連絡を
くれたようです。
「今いる状況を教えてください!」との
言葉にテンパる私は
・休憩室にいること、
・怪我はないこと、
・窓ガラスが割れていること。
・テレビが倒れていること。
を伝えました。
「外に出られますか?」との問いに
立ち上がり少し歩いてみると
バックヤードは洗濯機、冷蔵庫、テレビ、エアコンなどの
在庫商品が乱雑に倒れ、道を阻んでいる状態でした。

あちこちに散らばった
商品を避けながら、店舗に出ると
昼間なのに店は開店前ほどの暗さ。
展示品は散乱。
もちろんBGMも止まり、
少し不気味に避難経路の緑のマーク
だけが見えていたと思います。

そのまま出入り口へ向かい、外へ出ると
道を走る車は停車。
信号機も止まり、一同に駐車場に集まり
姿勢を低くして座る老人や、
車のラジオで状況を確認する人、
抱き合ってる親子。
携帯電話で家族に電話をする人など様々でした。
記憶に残っているのは、
その後も余震が続きましたが
一番大きかった地震が、
地震が震度6強だったこと。
駐車場の地面にヒビが入り、
その地面が上下に揺れているのが
目で見てわかるシーンは今も鮮明に覚えています。
私も家族へ電話を入れましたが、繋がらず、、、
とにかく緊急ミーティングが始まり、
本社からの指示で
お客様の求める商品を販売する方向になりました。
お店に散らばった商品から、
必要になりそうな商品を
風除室から出入り口の狭い空間に並べ、
パイプ椅子と長テーブルを置き、
レジが使えないため電卓で計算を行い
店を開けることになりました。
そうすると、親ネットワークによる情報や
TwitterなどのSNSの拡散力はすごいもので、
集まってくる 集まってくる 人々。
一気に長蛇の列になったことを記憶しています。
電池、懐中電灯、湯たんぽ、水
ガスコンロ、ガスボンベ、ポリタンク、
ろうそく、マッチ、カイロ、石油ストーブ
もうとにかく現状使えそうなものを無我夢中に
運び出しては、補充して、
色々な商品を手打ちの電卓で販売しました。
・乾電池を1万円分くらい購入する人
・その量の多さに、購入できなくなるのではないかと
不安のせいか後ろから野次を飛ばす男性
・冷蔵庫が壊れたため見にきた。
などいろんな対応に追われました。
とにかくあの時は、
無我夢中で冷静で入れませんでした。
※冷蔵庫に関しては店内が危険なので、
店に入れないことを伝えましたが、
なかなか納得してもらえず、
パンフレットだけをお渡しすることになりました。
そもそも、電気もまだきていない。
配達業者も配達等の稼働ができなかったので。。。。
1日目の来店したお客様の全員の対応が終わり、
日が暮れはじめた後
独身の私は店の防犯サービスが停止している関係で、
ひび割れた店を見張る係となり、一度家に戻り、
着替えと毛布を持って店舗へ戻りました。
もともと仕事を終えた後は、実家に帰省し、
翌日は東京で友人と会う予定だったので
冷蔵庫は空っぽ。お店のスーパーもほぼほぼ空っぽ。
お昼もろくに食べれず散々で、寒さとの戦いでした。
(ちなみに前文に「散々で、」って書きましたが、
この時はまだ東北を中心
に他の都道府県の皆さんがどんな状況だったか
何一つ知りませんでした。
電気、ガス、水道が止まっている為
津波の映像を見たのはそれから3日後でした。)
とにかく、制汗スプレーや汗拭きシートで体を拭き、
食べ物&飲み物は
・水のペットボトル2本
・みかん1個
・クッキーなどのお菓子3袋くらい
・ガム
で食をつなぎました。
その日の夜には、
家族と連絡がとれ、安心しましたが、、
翌日会う予定だった友人からは
何もいつもと変わらない様子でした。
「明日の飲みどうする?」とのLINE
同じ関東なのに、
こうも場所で感覚が違うのかと
イライラより、
ちょっとがっかりした記憶があります。
もちろん、飲み会なんかいけないし、
それどころじゃないので断りました。
それから2日目・3日目は
シフトを調整して店を開け、
小物商品を中心に売
り切れるまで商品を販売しました。
食べ物は同じ職場の
パートの方が家からおにぎりなどの
差し入れを下さったり、
会社からの支援物資
(バナナ・チョコレート・ポカリスエット)が
届きなんとか大丈夫でした。
ただ、ガソリンも少なく
確か給油するのに1時間以上並んだり、
ポリタンクで補充したことを記憶しています。
そして3日目。〜水道・ガス・電気復活〜
やったー。濁ってるけど、水が出た。
電気がついた。洗濯できる。風呂入れる。
久しぶりに日々のありがたさを噛みしめる中、
6畳の社宅で久しぶりにテレビを見た時。
目に入ってきたあの津波の光景は、
すぐには理解することが出来ず
別の国の出来事なのかと錯覚するほどの
衝撃で言葉になりませんでした。
それと同時に、千葉の大学で知り合った友達の中には
東北出身の消防士の子がいたので心配でした。
(無事生きていましたが、新卒一年目。
僕らの何倍も大変な経験をしたと思います。)
同じ日本でこんな経験をしている人がいるだなんて、
自分の何倍も何倍も辛い思いをしている人が
すぐ車を走らせれば、
すぐ近くにいるとなんだか、
被害者ぶっている自分がすごく
恥ずかしくなりました。
仕事の関係で
ボランティア活動には参加できなかったけど
それからは、募金をあちこちでしました。
そして、少し復興してからは、
どうしてもその様子が知りたくて
福島へ行き、海産物を買ったり
現地の人にお話を聞いたりする為に
家族で出掛けたりもしました。
泣きながら、家族を失った
辛さを話してくれた男性のお話は
とても胸が痛かったです。
あれから14年。
生かされた人。九死に一生の体験をした人。
家族や友人、大切な人を失った人。
もう戻ってこない人。まだ見つかっていない人。
今もあの傷が癒えず、苦しんでる人。
あの日で人生が180度変わってしまった人。
きっとたくさんいると思います。
この体験は次元が違うけど
人の記憶って、少しずつ薄れていって 忘れるやすいものだから
自分の経験をできるだけ、ここに記して、残して
たくさんの人に 少しでもこんな思いをした人が
いたんだ!と思ってくれたらなと思います。
あの日生まれた子も、日本には絶対いて
今年て14歳。もう中学生ですもんね。
時の流れの速さを感じます。
二度と同じような体験はしたくないけど
天災はいつも突然襲ってきて、
いつも、いろんなものを失っていきます。
それでも、私達はいまを生きています。
1日は24時間。
皆平等です。
だから、亡くなった人の分まで
失敗してもいいから
自分が今日できる事を
精一杯やって、
命を大切にして
生きていきたいと思います。
それでは最後まで
読んでくれてありがとうございました!

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おわり
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